文字数と紙媒体

『すべてがEになる』を読んでいた。(試験前じゃなかったっけ)
ところで、前書きというか、ブログを紙媒体に載せて出版するという試みに対する言い訳が書いてある。
この言い訳に関して、”言い訳”と呼びはしたが、否定しない。鈍い人への(やっぱり)言い訳である。
(むしろ【言い訳】(いいわけ)という単語に、自分が負のイメージをほとんど抱いていないというところに問題がある気がする)

そこに、(あんな分厚い本のくせに)オリジナルはインタネットにあるからリファレンスしたければしてね見たいな事が書いてあるわけですよ。
思ったのは、紙媒体だから読めるが、あの分量の文章が、CRTないしはLCDにかかれていて、スクロールして読むかたちであったのなら、私は読まないと云う事である。

なぜだろう。紙媒体に徒然と無意味な事が書いてあったとしても、少しは目を通すし、その目を通す具合(数値化出来ないが)は興味深さを引数とした函数で表すと指数函数である(引数も戻り値も変数型は”主観”であり、最小値は-∞、最大値は∞である)。

ページという概念が希薄なままなのがいけないのか、媒体がいけないのか、つまりiPad,Kindle,GARAPAGOS,またはそれに類するものだったら大丈夫なのか、そうだとして20世紀生まれの僕の問題なのか普遍的な問題なのかは未だ不明である(僕にとって)。
紙だから冗長であることに気づきにくいものの例として、現代文の教科書について言えば、一つの評論のなかに主題は0ないしは1つ含まれているように見えるが、少なくともあの文字数は冗長である。しかし、授業中や、(秀才は)家庭学習時間を割いて何時間も読むのである。

0個の主題であるのであれば、[EOF]とのみ書いた方がよっぽども哲学的示唆に富むと思う(そういう評論があったら1時間は討論できるかもしれない)。

言ってることがまちまちで分かりづらい例と、中途半端に(著者のまわりの)社会通念と折り合いをつけるための言い訳(これは良く無い意味かも)が粉飾されていて、かと言って段落要約しようにも粉飾を削るとニュアンスが変わってきて、試験で段落要約をしなければならない文系の人々は、試験用のスキルを発動する度に良心が傷つくんじゃないだろうか。かわいそうに。と思うほどに理不尽に感じるのだ。
もし、教科書が電子化されたら、その時こそ阿呆らしさが身に染みてわかるだろう。というか教科書電子化してup-to-dateな状態にできるんなら、その日の天声人語のどっかい{読会|読解}をするのが利にかなってると思う。

文学は芸術観賞だから全文読む限りにおいては今のスタイルでいいかもしれないが。

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